セッション情報 | 消化器病学会・肝臓学会合同特別企画3(消化器病学会・肝臓学会合同)消化器病学会・肝臓学会合同特別企画 「新時代を担う若き消化器医へのメッセージ」 生体肝移植をいかにして切り開いたか |
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タイトル | 消肝特企1-3:生体肝移植をいかにして切り開いたか |
演者 | 田中 紘一(神戸国際医療交流財団) |
共同演者 | |
抄録 | 「脳死はヒトの死か?」を巡る長きに亘る議論、和田心臓移植の負の遺産、さらには社会からの医療不信等の複合因子が絡まって、我が国では臓器移植が進まなかった。一方、欧米では、免疫抑制剤シクロスポリンの臨床応用を契機に、1980年代には、脳死臓器移植が一般医療として確立・普及した。このような中にあって、我が国は、基礎研究の成果でのみしか、世界に貢献できなかった。 当時、京都大学第二外科(小澤和恵教授)の肝臓外科学は、肝ミトコンドリアの研究が中心であり、ヒヒを使って肝不全に対する肝サポートの臨床応用を展開していた。しかし、この臨床研究は治療学で大きなブレークスルーには至らず、小澤教授は、Rebox理論を基盤に、肝移植へと歩みを進めた。私は小児外科医として、難病である胆道閉鎖症の治療研究に従事していたため、この病気で多くの子どもを失い,悲壮感を抱いていた。まさに教室の肝サポートから移植への大きな岐路にあって「移植を通して、もっともっと世界を見なさい」とピッツバーグ大のスターツル教授の下へ1986年に3ヶ月の研修機会を得た。この期間中に脳死移植とは別の生体肝移植を着想し、帰国後、直ちにビーグル犬を用いて動物実験を開始した。この研究は開始当時、失敗の連続で、研究参加者も少なくなり、研究費も無駄となってきたが、小澤先生は「君、研究とはこんなものだよ」といって、約2年間、一度も「止めろ」とは言わなかった。創意工夫と忍耐で、一貫性ある研究を続けた結果、動物実験も成功し、1990年6月に我が国第2例目となる臨床生体肝移植に踏み切った。生体肝移植を脳死移植とは別の位置づけとして確立すること、ひとつひとつの課題を克服することを信念に、寝食を忘れてこの医療に没頭した。思いの一つに、日本の医療環境では、これに打ち勝ってこそ、世界の移植で発言できることがあった。ABO不適合移植、ドナーからレシピエントへの病気の伝搬、成人生体肝移植と右葉グラフトの導入、免疫抑制剤療法を含む周術期合併症、手術合併症等、数多くの課題に直面し、その克服に努めてきた。その結果国内外で、多くの知見が発表できた。「一歩なければ二歩はなし」、「ここでひるんだら新しい事が生まれない」と言いつつ、10年目頃に社会から、生体肝移植の確立・普及を位置づけられた。こうした積み重ねから京都大学病院は、海外から“見える病院”となり、それがまた、我々を国際レベルの舞台に押し上げてきた。「志高く、雑巾がけ」をモットーに、まだまだ感性を磨きながら、アジアの拠点となる新しい病院を設立し、医療イノベーションを目指し、少しはパラダイムシフトに貢献したい。 |
索引用語 |